フラヌール地帯

あるがままに、わがままに。感じたことがコトバになる場所。

映画「スティーブ・ジョブズ」(2015) の隠し味に機能不全家族のエッセンスを感じた

スティーブジョブズの映画を借りて観た。

ソーシャルネットワーク」のほうの。

 

 

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世間からはだいぶ乗り遅れたが、ちょっと感想を。

 

 

僕は最近になって趣味でプログラムを書くようになった程度の日曜ITボーイで、そもそも業界のバックグラウンドをちっとも知らない人間だ。だがそんな素人にでも、この映画の登場人物たちのマシンガントークの応酬は、なんだかプラシーボ効果(と言っていいのか分からないけれど)のようで、こっちまで頭脳がアップしたかのような妙な錯覚に陥るに十分な存在感があった。

 

ところが、仕事ではキレッキレのジョブズのITのステージの外での裏の顔は、もはや「鬼畜パパ」という感じ。別の意味でキレッキレで、その背中は20世紀の名だたる画家やミュージシャンのようにエキセントリックそのもの。

 

例えるなら、

「見かけは大人、頭脳も大人!だけど、ほんとは今でも子供!これからも!だがその遥か先にオレのビジョンがある!つまらんことでガタガタ抜かすならさっさと失せろ!Stay hangry, stay foolish!!!」

 

という感じで、一歩間違えたら「ポスト・真実」の某大統領のよう。ジョブズの暴言と気まぐれは、記録では「現実歪曲空間」とも皮肉られていたようなので、もしかしたらこんなところでも時代を先取りしていたということになるのかもしれない。とはいえ、個人的にはジョブズはともかくとして、トランプさんの方の過激発言はどうかジョークで終わってほしいし、現実はどうかより安全で暮らしやすい方に曲がってほしいなどと思ってしまうのだが、それともかくとして、毎度ジョブズのフォローのために殊勝に仕事をこなす秘書とウォズこそ、ある意味で陰の主人公たちではないだろうかとさえ思った。

 

 

 

ところで、ビジネスバトルの陰で個人的に印象的だった部分がある。ジョブズの娘“リサ”のエピソードだ。物語の要所要所で、オトナの狭間で我慢に我慢を重ねながら成長してゆく感じが、なんともはやいかんともしがたい。僕はこのエピソードのパートばかりが印象に残ってしまった。

 

 

 

子供は親を選べない。

そして相手がたとえどんな親であったとしても、その愛と承認を渇望する。そのために自分の周囲の関係を読み、振る舞いを変え、無意識にお親の幸せをも願いながら立ち回る。

子供はいわばこの世いちばん、けなげに「空気を読む」存在だと思う(環境適応するための分析だとしたら、生命としての本能なのかも分からないが)。

 

そんな不安定に近い未完成の状態で、本人の自己都合で気まぐれに「愛す」ことと「無視する」ことを繰り返す親がいる。すると、子供は自分の存在価値に不安をいつまでも感じ続けることになる。

幼少期が人生で一番感受性豊かな年頃なのは紛うこと無き事実。そんな期間にあって、親の心を絶えず観察していて、自分が親にとって居てもよい存在なのかを確認せずにはいられないのだから大変だろう。

 

例えばこの映画のジョブズ家(家庭未満だが)のように、どこか親が自己都合優先で、子供のプライオリティが二の次だった場合、子供は何となくその雰囲気も察している。悲しむ母親も観察している。なにしろ子供は両親同士の関係性も読み、無意識に気を配っている。

 

ほとんど毒親状態で愛されているのか分からない不安定環境。それはまるで親の心の在り方が、「こっちにおいで、でも来たら突き飛ばすよ?」とでも言わんばかりの状態。心理学では「ダブルバインド(板挟み)」といわれる。

顔を合わせれば互いを警戒し、喧嘩の絶えない両親が、情緒的に安定できていない状態で子供と対峙し行動をともにする。それは子供にしてみれば、自分がしっかりしないと親に見放されるのではないかと、生命の危機を感じて自分を抑制し心理的外見をつくり直してしまう。こうなるとリサは「アダルトチルドレン」となる。

劇中でポツリポツリと垣間見られる、幼少期のリサの内向的な性格というのは、そういう環境的矛盾からなんとかして逃れ、同時の親の情緒の安定を作るために築いたシェルターのひとつに見える。様子が落ち着いている、手のかからない、親や周囲にも迷惑をかけない(けれど、親を恐れつつも本当は誰よりも親を独り占めしたい)のは、不条理な環境にあってその環境を壊すことなく、また自分が存在するために必要な生存戦略であり、またそれによって返って生きづらさを抱きつづけることになる。

ほんとはワガママを言うべきところを、ギリギリまで我慢して、自分の要求を減圧して、小出しにして伝えてしまう。そして決壊するまで我慢する。逆に言えば、決壊したときが心のコップの限界なのだが、それを普段からの耐え過ぎによって、なかなか自覚できない。それが傍目には、大人しくつかみ所のない印象として認知される。

リサがMacintoshを操作しながら遠回しにジョブズと会話する風景は、そういった複合感情の象徴に見える。まるでMacintoshジョブズとリサの糸電話になっているかのように。

 

そんな中にあって、幼少期のリサがなんとかやっていた間接的な理由には、ジョブズの周囲の人々からの愛の補給だろう。もしそれがなければ、リサの10代は「手のかかる」どころか「おおごと」になっていたかもしれない。

 

なんだが急に大げさな深読みに入ったな、と思われるかもしれないが、いやいや子供はほんと敏感で観察の達人、まして女の子は精神的発達も早いのだから、あなどるべからず。

 

余談になるが、僕が学生時代にしていたバイト地元の郊外団地のすぐ近くに出来てまもない、大型のショッピングモールで売り場店員だった。僕の担当は雑貨売り場だったが、店内は年中子連れをよく見かけた。そこは大きい店なので、親が買い物をしやすいよう、その一角にはプレイランドのような子供預かり施設も設けていた。休憩や閉店の際には別部署の先輩と同席する。よく耳にしていた話題は、店内のプレイランドに預けっぱなしで放置していた親とのトラブル事例。それを聞くたびに度に腑に落ちない気分になった。(その街は働き盛りは多いものの、全体としてはお世辞にも豊かとは言えないムードの、典型的な郊外型都市だった)

 

また、自分の小学時代から中学時代までの親友にT君というヤツがいたのだが、そいつも大変そうな家庭だったので、その印象が頭の片隅に残っている。その後、大学に入った自分が心理学に興味を持ったのも、こういう周囲の環境に在ったと思う。

(ちなみにT君は共働き家庭の一人っ子で、何かにつけて「現地調達」が得意なクリエイティブな小学生だったのだが、そのスタイルはかの有名なゲーム「メタルギアソリッド」を地でいくような感じだった。また何かの折にご紹介したく思う)

 

 

 

 

と、こんな調子で終始ジョブズの親子関係の行く末が気になりながら観ていた。が、よくよく考えてみれば製作にあたりこのような対比を意図して配置したのには違いないだろうから、ならばこちらも、と遠慮せず書いてみた次第。そろそろ戻りますか。

 

 

 

映画のラストはそんな気になるファミリー風景で締めを迎える。

ラスト、ジョブズは親として音楽好きの娘へ一個の提案を投げる。キャッチボールが苦手な者なりの、遠回しな愛のひねくれ変化球。

その提案のボールが、いずれあるプロダクトに形を変えるという暗示がなされている。事実は分からないけれども、ついつい「マジですかー」と思ってしまう、興味をそそられる引きになっている。そのシーン撮影は屋外で、それまでずっと延々とオフィスや会場といった屋内ショットだったのと対比されていた。まさにヌケ感。(毛髪にあらず)

けれでもやはり、最後まで意地を張りぎこちなくなってしまう、父親偏差値Fランク。ワーカホリックな男の背中で追ってエンドにもっていく行く感じは、なんだか懐かしい王道のエッセンス。(その後、娘さんはどう思ったんだろうね)

余韻を残してフィニッシュ。

 

 

 

 

ジョブズという人物よりもその周辺が気になってしまったが、映画全体として「偉人さんバンザイ」という感じに寄せていない分、いち人間同士のビジネスやプライベートの価値観の対立が人間ドラマとして楽しめる映画だった。

 

 

 

……全く違う角度から書いてしまいましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

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